ブログ
岡崎邸の保存

岡崎家住宅が鳥取の歴史を刻む重要な史跡記念物として重要と考えられるのは、この第7代岡崎平内可観とその仲間、愛護会による必死の活動の結果、達成された鳥取県再置にあると言えよう。愛護会メンバーは、東京で政府要人を訪問し、鳥取 […]

続きを読む
ブログ
岡崎邸の着工

これらの泰姫御殿建設の推進の最中に岡崎邸の着工が承認された(御目付日記天保6年(1836)1月27日の条)。そこには建物の平面と共に特記仕様が記されている。平面の記述内容は現状建物の平面と完全に一致し、現存岡崎邸の基本部 […]

続きを読む
ブログ
奏姫御殿の建設

しかし、これらの財政復興は、主として文化・文政期に可之が行ったことである。天保2年(1832)に生まれた藩主と徳川将軍末娘泰姫との婚儀に対してこれを良い話しとして新たな財政負担に対して可之が即座に承知できたのは何故かー更 […]

続きを読む
ブログ
何故に岡崎平内邸に特別の仕様が許されたのか? その3

なぜ、岡崎平内可之がかくも高く信頼されるようになったのか? 既に記述したように、岡崎平内家5代目の可之がこの肥大化した借金を短期間に解消させたからであるが、それはどのようにして可能となったのであろうか? 岡崎平内可之は、 […]

続きを読む
ブログ
何故に岡崎平内邸に特別の仕様が許されたのか? その2

岡崎平内は、藩財政の復興を見事に成し遂げ、文政4年には銀札場御用、文政8年(1825)には勝手方長となり、寄合、即ち藩の意思決定会議のメンバーとなり、更に文政10年(1827)には元締め役、即ち藩の財務総体の元締めとなっ […]

続きを読む
ブログ
何故に岡崎平内邸に特別の仕様が許されたのか?

天保6年(1835)1月27日に着工が認可された岡崎平内可之(5代目岡崎平内)邸の構えも各部仕様も、中級武士の武家屋敷としては極めて特異なものだった 武家屋敷としては異常に大きな断面の部材 7寸角(233mm)の土台 6 […]

続きを読む
ブログ
岡崎平内が目指し、実践した議会制民主主義の下での地方振興 その2

国政に参加 当時、岡崎平内は、議会制民主主義に全幅の信頼を置いていた。 これが正しく回るなら必ずや日本国の繁栄が生まれると確信していた。 岡崎平内は、鳥取県再置と共に鳥取県令から邑美・法美・岩美郡長を命じられたが、明治1 […]

続きを読む
ブログ
岡崎平内が目指し、実践した議会制民主主義の下での地方振興

岡崎平内が鳥取県再置を実現できた理由 鳥取県は、島根県に併合され、一旦消滅したが、復活した。 この功労者の一人に岡崎平内がいる。 もう一人の功労者としては、足立長郷氏がいる。 この二人の活動形態は、大きく異なる。 足立長 […]

続きを読む