何故に岡崎平内邸に特別の仕様が許されたのか?

天保6年(1835)1月27日に着工が認可された岡崎平内可之(5代目岡崎平内)邸の構えも各部仕様も、中級武士の武家屋敷としては極めて特異なものだった

武家屋敷としては異常に大きな断面の部材

7寸角(233mm)の土台
6寸角(200mm)の柱を床上で5寸2分(173mm)に細め、2階まで通して隅に丸みを出したスギ面皮仕立

外見的には入母屋平屋建てであるが、大きな入母屋妻窓を持ち、2階に座敷を持ち、数多の武家屋敷の中で一際棟高が高い

床の間を桁行き方向、梁間方向の2方向に設け、その壁を土台から立上がる耐震壁とする

棟桁を2段重ねとして剛性を高め、その直下まで土壁とする

建物全周に胴差を廻らせて軸組に粘りを加える

足固も胴差も柱を介して雇い長枘シャチ止として軸組を引き締めている

2階座敷は大きな開口部で城見の部屋となっており、他に比べて一段と凝った装飾

濡れ縁仕様の縁側と丸縁桁で幅広い開口

面皮仕立ての廻り縁

面皮仕立ての細竿縁

隠し階段とされた2階座敷への階段

まだ挙げれば限りが無い

可之は、中級武士であるにも拘らず、殿の御殿とも見紛うばかりの大断面部材が使われていた。このようなことは身分制度の厳格だった江戸時代には許されないことであった。

それにも拘らず、このようなことが許されたのは何故か?

このようなことが生れてもやむを得ない事情があったと考えられる。