平成15年3月10日
緊急請願書
鳥取市議会議長 三谷 伝 様
(提出者) 鳥取市西町1丁目106 和光ビル
市民文化財ネットワーク鳥取
理事長 渡辺 一正
(紹介議員) 上田 孝春
角谷 敏男
桑田 達也
谷口 満
寺垣 健二
橋尾 泰博
松本 信光
件名 旧岡崎邸・池内邸の保存対策について
要旨
1)旧岡崎邸の保存のために次の措置を至急行うこと
(ア) 底地の買上ないし借用
(イ) 建物の緊急補強
2)池内邸について保存措置を至急行うこと
(ア) 池内邸の活用計画を立案する
3)32万石城下町の歴史遺産および久松連山山麓の歴史遺産を活かした鳥取まちづくり構想のための市民・市職員・市議などによる研究・実施チームを組織し、県と一体となった実施体制を整えること
(ア) 久松山麓・山の手地区ならびに藩政時代の薬研堀周辺に集積する既存歴史遺産を有効活用する鳥取市まちづくり構想を実現するための鳥取市機構改革の実施
(イ) 本件に関する県と市の連携の強化
(ウ) 元大工町の延長、上魚町の若桜街道側にあって取り壊されようとしている青木邸の調査
(エ) 薬研堀、元大工町の歴史上の意義についての調査
(オ) 元大工町通りの都市計画道路の見直し
緊急請願の理由
旧岡崎邸は、経済危機に陥っていた因州藩の経済を立て直した5代目岡崎平内可之が屋敷を拝領し、後に明治の廃藩置県後に一時島根県に併合された鳥取県の再置運動を起こして再置に漕ぎ着け、初代の公選鳥取市長となった7代目岡崎平内可観にわたる代々の岡崎平内が居住した屋敷である。しかし、長く居住権を楯に護ってきた中田正子氏が死亡したためいつ壊されても不思議でない状況に置かれている。建設者並びに居住者の鳥取の歴史における重要性は高く、市の史跡として保存すべき建造物であり、また昭和18年の鳥取地震の他、幾多の災害に耐える堅固な造りである共に中級武士の武家住宅から初代市長の住宅へと変遷した江戸末期から明治中期に至る激動の時代を反映する住宅であり、鳥取市の地方史的観点からも極めて重要な文化財と考えられる。これらのことから至急保存のための措置を施す必要がある。
池内邸は、藩政時代因州藩の経済活動の中で重要な役割を果たした初期商人、高砂屋の流れを汲む商店で、江戸期の町屋を改造した居住部分、明治25年建設の店舗部分と昭和に入ってから買い足した居住部増築分からなるが、前者2つは何れも店・にわ・蔵からなる江戸時代の町屋の構成を維持し、元大工町通りの商家の姿を良く示す。殊にこの池内邸は薬研堀の際に建てられ、在りし日の薬研堀の姿を知る上でも市の重要な文化財と言える。既に昭和20年代に道路の拡幅が行われ、屋敷を一度曳き屋した経験があるにも拘らず、この程都市計画道路の拡幅によって再度曳き屋する計画となっているが、既に曳き屋をしている関係から更に曳き屋をする余地も無いので、この道路計画の実施はこの池内邸の取り壊しを意味する。至急池内邸の保存のための措置を施す必要がある。
上魚町の青木邸は、やはりこの道路拡幅で立退きとなった建物であり、既に転居先の工事も進んでいるが、池内邸と同様に、明治期の建造物と考えられるが、各町屋の区画は江戸以来のもので、それぞれ店・にわ・蔵からなる構成を維持している。その詳細が判れば、元大工町通りから上魚町通りに至る藩政時代の町屋の姿が明らかになり、地域の歴史に対する理解を深めることが出来る。現在、青木邸を取り払って市役所の駐車場とする計画が進められており、調査は緊急を要する。
久松山とそれにつらなる連山の麓一帯は、既に文化財に指定されたものも多いが、未指定のものでも旧岡崎邸、池内邸などの歴史的・文化的な価値は高く、一帯に存在するどの寺社も由緒正しく、多くの剣豪・文人の墓や各種の記念碑がある。薬研堀は江戸以前からの城下町発達の歴史を考える上で重要である。鳥取にはこのような重要な歴史遺産がありながら、歴史に対する配慮の不十分な都市計画が人々の地域に対する誇りを失わせている。既に市の文化財に指定されている元大工町通りの古図は、かつての町の変遷、すなわち職人町から商人町、横町の出現などを良く示している。市域は周辺町村との合併によって拡大される動きにあり、これによって町の様子も大きく変わらざるを得ない。このような時期に今日の姿に至るまでの歴史的な過程に対する配慮を疎かにするなら、市民の地域に対する誇りを失わせ、地域の活動原動力を減退させる危険性が高い。歴史・文化に立脚した新たな町づくりのイメージを確立・実現するため、政治家・行政官・市民による調査・実施チームを県と市の協力体制と共に組織することが緊要である。
添書
鳥取は池田家32万石の城下町として発達し、家々の甍が連なり所々に木々の緑が映える美しい町でした。昭和18年(1943)の鳥取震災、27年(1952)の鳥取大火で城下町はほとんど壊滅しました。幸いにも久松山に連なる山の手を歩いてみますと江戸・明治・大正時代の面影が残っています。
旧岡崎邸は、山の手のほぼ中央に位置する中級藩士(500石)の屋敷です。武家屋敷が次々消滅していく中で、城下の武家住宅を今に伝える貴重な歴史遺構です。天保年間、長州藩では村田清風、薩摩藩では調所広郷が藩財政改革に取り組みます。因州藩では5代目岡崎平内が藩財政の建て直しに取り組み成果を上げました。これにより5代目の時、500石を拝領し屋敷を現在の地馬場町に与えられます。現存する旧岡崎邸はこの天保年間に基本的部分の築造がなされたと考えられます。7代目岡崎平内は鳥取県再置運動にかかわり、初代鳥取市長、県会議長、国会議員として活動し、学校設立、養育院設立、現在鳥取市無形文化財となっている雖井蛙流普及に務め、明治前半期の鳥取の代表的政治家です。旧岡崎邸は、一般的な武家屋敷と対比すると、この家の歴史をうかがうことが出来る独自な意匠を残すと同時に江戸末期から大正期にかけて時代ともに変遷する生活を反映した興味深い住宅となっています。
さて、丸山、天徳寺、興禅寺さらに観音院から吉村邸に至るまでの山の手一帯には、羽柴秀吉と吉川経家が対戦した古戦場、国の史跡に指定されている鳥取城址、国の重要文化財に指定されている仁風閣・樗谿神社、鳥取市の名勝興禅寺庭園、鳥取建築100選に選ばれているグランドアパート、国の名勝に指定されている観音院、国の登録文化財となっている吉村邸、大雲院はじめ、由緒ある神社・寺院も数多くあり、加えて水道事業・電気事業発祥の地でもあります。藩政時代に水を供給した水道谷、近代に市民に水を供給した水道山があり、市内で最初に電灯が点いたのは仁風閣です。鳥取の人々の生活を今に伝える歴史の道です。
寺院には鳥取の歴史で評価すべき人たちが多く眠っています。興禅寺ー渡辺数馬、松田秀彦、米子荒尾氏。龍峰寺ー鳥取中学初代校長蓮沼。日香寺ー武術家松尾氏・河毛氏、儒者渓百年。大隣寺ー尚徳館学館奉行箕浦一門。芳心寺ー池田光仲夫人。完龍寺ー藩医村上三代。観音院ー儒者富山景忠、増井熊太。二十士関係二宮一草。広徳寺ー力士鎌倉十七などです。自由律の俳句で有名な尾崎放哉生誕地、天然記念物指定キマダラルリツバメの地もこの地域にあります。
元大工町は、鳥取城下町形成期に町作りに当たった土木技師・大工等が居を構えた所で鳥取城下町の中で始源となる町です。この町の変遷を伝える古絵図8枚が鳥取市重要文化財に指定されていますが池内家は薬研堀に隣接して、この元大工町に存在している初期商人高砂屋の流れをくみ、池田光仲の鳥取入部にさいして来鳥してきた旧家です。家屋は、店部分は明治中期のものですが一部に江戸期の遺構を含み、店・蔵・庭を備えた藩政時代の商家の姿を今に伝えています。上魚町の青木邸も明治・大正期の標準的な商家の遺構です。また智頭街道には石州流茶室・久松山借景の庭園を備えた標準的武家屋敷である旧福田丹波邸があります。旧福田邸は上級藩士(3500石)の屋敷です。旧岡崎邸と旧福田邸の作りは興味深い対照をなしています。
かって仁風閣は、保存か否か、が議論され、鳥取市議会の賢明な御判断で保存されることになり、昭和48年(1973)、国の重要文化財に指定され、鳥取の代表的な歴史建築物とし久松山下の歴史性を高めています。これに加えて旧岡崎邸、池内邸、さらに旧福田邸を整備活用すると、久松連山山麓一帯の歴史的価値は一層高くなります。保存とあわせてこれらの歴史遺産と鳥取の歴史をわかりやすく案内すれば、市民にとってこの道は鳥取の歴史を認識する場になるとともに鳥取らしさを発信する観光ルートの目玉となります。
旧岡崎邸、池内邸、旧福田邸などを保存し、一帯の活用を視野に入れて、鳥取市まち作り構想を実現するための組織を鳥取市の機構の中に設置されることをお願いします。