旧岡崎邸と池内邸 〜その文化財的価値と直面している危機〜

 

馬場町にある旧岡崎邸は、江戸時代・天保年間(1830〜43)に基本部分が建設されたと考えられる武家屋敷である。武家屋敷としては珍しく商家的なしつらえを数多く有しているのがこの建物の特徴であるが、現在に至るまで何度か改変も行われており、全てが建設当初のままとは言い切れない。

 

しかし、当主であった岡崎平内が代々優れた人物であり、特に五代目平内は、因州藩の財政を立て直した功績から現在の敷地に家を建てることを認められた人物で、また七代目の岡崎平内(1848 [嘉永元]〜1917[大正六]年 =写真1)は、明治時代前半期に政治家として活躍し、国の廃藩置県政策で一旦消滅した鳥取県の再置運動に尽力して見事再置を勝ち取り、初代の県議会議長、初代鳥取市長、さらに第1回の帝国議会議員を歴任して、現在の鳥取の礎を築いた一人である。この代々の平内が鳥取に寄与してきた歴史だけを考えても、旧岡崎邸が鳥取の歴史的な遺産として十分な価値のあるものと言えるのではないだろうか。

 

 

この建物が今日まで残ってきたのは、一つは大地震にも耐えた建築物としての優秀さであり、もう一つは、岡崎家の所有を離れて以降の複雑な権利関係と、つい最近までお住まいになっていた、日本初の女性弁護士として名高い中田正子さんが、居住権を楯に護ってきたからである。だが、その中田正子さんの亡くなった今、建物は何時壊されても不思議でない状況にある。

 

元大工町にある池内邸は明治中期の建物であるが、この家は江戸時代には材木町に店を構え、藩の経済活動を大きく支配した高砂屋の家系を引き継ぐ商家であり、往時をしのばせる立派な構えを示しながら、同時にその周辺の町屋の構成を維持している。池内邸は、旧城下町地区に江戸時代の商家の様子を今に伝える代表的な建物と言える。

 

池内邸が現在の位置に移ってきたのは1892(明治25)年頃と見られるが、元大工町は寛永年間(1624〜43)の水帳(検地帳/市の重要文化財=図5)により江戸時代を通じての町屋の変遷を知ることのできる街区であり、1952(昭和27)年の鳥取大火でも罹災しなかった所でもある。こうした江戸時代の土地利用の様子を伝える地域に江戸時代の商家の様子を伝える建物が残っていることは、鳥取市の歴史を後世に伝える上で重要だろう。

また、薬研堀(やげんぼり)(六万石時代の城の外壕)に接して店を構え、家の前の薬研堀に架かっていた土橋から「どばしや(土橋屋)さん」と呼ばれていたことも、往時の生活文化を感じさせる。

現在池内邸は、都市計画によって()き屋を余儀なくされている。しかし、既に戦後すぐの昭和20年代に道路拡張のために曳き屋しており、もう曳く余地はない。

今回の都市計画は、車椅子がすれ違うことのできるように歩道を拡幅するということであるが、拡幅の必要性と歴史的遺産の保存価値とを比較して計画の妥当性を再検討する必要があるのではないだろうか?