地方史に基盤を置いた文化財政策の必要性
鳥取市内における文化財が悉く燃え、市内には文化財として評価すべきものは何も無いという言葉は、しばしば鳥取市民から聞かされる。
昭和27年、1952年の鳥取大火は市内の多くの建造物を焼き、市民に確かに重大な損害を与えた。しかし、その被災地域は市域の全域ではなくその一部に過ぎない。殊に寺社と武家屋敷の多かった久松山の麓周辺はむしろほぼ無傷であった。
多くの武家屋敷がどのようにして消えていったかは定かではないが、1952年の大火で燃えなかったことは確かである。
当然、市の郊外地域に火は及んでいないので、多くの農家は、庄屋、大庄屋の屋敷も含めて無傷であった。
市は、この火災以降、県や国の協力を得ながら市内の歴史的な遺産に目をくれることなく新たな都市の建設に着手したものと考えられる。その意気込みはかなりなものであったと想像され、当時を良く知っている人々は復興景気に見舞われたと回想する。
実際、若桜街道の両側を鉄筋コンクリート造の建物で固め、延焼遮断帯を形成するなど、当時の最新の防災技術が適用され、市の様相をそれ以前に比して一新した。
しかし、市内に歴史的な遺産が全く無くなったというのは、上記のように真実ではなく、多くの歴史的遺産が、主として被災地周辺に残されていたものと考えられる。
1943年、昭和18年の鳥取地震は、戦争末期であったために国民に対する報道が制約されていたようであるが、M7.2の直下型大地震であった。鳥取の多くの歴史的遺産が失われたのはこの災害の方が厳しかったものと考えられる。
市の中心部は50%強の建物が倒壊に至る大被害にあっており、旧岡崎邸、池内邸の建築的な質がかなり高いことは、市の中心部にありながらこの地震に耐えたことで推し量ることが可能である。しかし、周辺まで広げて見れば、多くの建物が軽微な被害を受けたが、倒壊に至った大被害は全体の約3割に過ぎない。
つまり、地震と火災で歴史的遺産が失われたということは事実であったが、それでも50%弱のみが残ったことになる。旧岡崎邸、池内邸は共に1943年の鳥取地震にも耐え、火災の被害にも遭わなかった建物であったが、このような建物が少なくなかったと想像することが出来る。
加えて、その後の遺産相続や用途変更によって失われた歴史的な遺産の方が多い可能性がある。
旧岡崎邸が残っていたのはその権利関係が複雑であり、且つ中田正子という弁護士が居住権を楯に護ったためである。
今日、多くの鳥取人が言うように歴史的な遺産の殆どが無くなっているのであるとするなら旧岡崎邸の存在価値は極めて高い。水害、地震、火災に加えて遺産相続という極めて厳しい条件を潜り抜けて生き続けたのであるから、その希少価値を評価するべきであろう。
地域の文化遺産は、国の文化遺産とは異なる評価尺度で選ばれて何ら不思議でない。
池内邸に至っては地震にも火災にも耐えながら都市計画による道路拡幅によって一度既に傷められながら再度傷められようとしている。天災以外に人為的な行為が歴史的な遺産を滅ぼす脅威になることを示している。
鳥取市文化財審議会の審議も、これら残存する僅かな遺産を他地域の遺産と比較検討し、地域固有の条件を無視するなら、文化財審議会といえども歴史的な遺産を毟り取る脅威となる。国の歴史の影には地域の歴史があり、それがあるから国の歴史もあり、文化もある。地域の人々がその立地の中で苦労して生活の質向上のために工夫してきたその工夫の集積とも言うべき地域歴史遺産の文化財的な価値を認めることこそ重要であろう。
想起せねばならないことは、かつて文化財指定になるとろくなことが無いと言って文化財となること、文化財的な価値を有することを示したがらない人々が多く、その結果、結局は失われていった歴史的な資産が多かったことである。文化財という仕組みが文化財を滅ぼしていったとも言えるこの現象を再び生んではなるまい。
さて、既に旧岡崎邸、池内邸が、数多の脅威に耐えてきたことは示したが、この2棟の建物調査の過程でもう1棟武家屋敷を発見した。この建物は地震によって傾いたが引き起こされており、以来50年余の間、大きな改変を経ないままに維持されてきたものであった。
この事実は、まだ更に歴史的な遺産の存在を期待させるところである。殊に郊外に行けば多くの歴史的建造物が残されていることは確実であり、既に生山には大庄屋の家がかなり古いものであることが確認されている。
これらの建物の所有者は何れもその建物の維持に困難を感じており、何らかの助成策が求められる状況にある。郊外で見かけた幾つかの建物は、大きな部材を用いた立派な建物でありながら、維持が悪く、倒壊寸前となっている。
鳥取に残された歴史的遺産は確かに少ないので、今日僅かでも残っているこれら資産の保存を積極的に行う必要がある。これら資産の文化的価値を認め、積極的な維持支援策を施すなら地域住民が地域に対する誇りを取り戻し、域外の人々を招き、それを示すことが出来るようになり、これが地域活性化につながるものと期待される。