岡崎邸って何?(岡崎邸物語) 岡崎邸は鳥取市馬場町に残る「武家屋敷」です。武家屋敷とは江戸時代「武士」が住んでいた家で、江戸時代には全国の城のあるマチ、城下町と呼ばれるマチには必ずあった、そのマチの顔ともいえる重要な建物でした。城下町である鳥取市をはじめ鳥取県にも数多くの武家屋敷がありました。今から約140年ほど前の1867年(慶応3年)には約4420世帯があったという資料が残っています。しかし、そうした武家屋敷も多くが取り壊されたり鳥取大火や鳥取地震などの天災、ビル建設など都市の発展の中でほとんどが失われ、今では岡崎平内邸と福田丹波邸(現岸根邸:裁判所前)の2つを残すだけになってしまいました。
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ではまずその岡崎邸の歴史からみていきましょう。
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岡崎邸の暮らしはどんなものだったのでしょうか。 7代目・平内可観の孫で女医として活躍した岡崎豊子さんの書いた本「時の流れに」にはその様子が書かれています。 「食事も親子の席が決まっており、祖父母が箸をつけるまでは決して先には食べなかった」こうした “年上の人を敬う気持ち”や、また豊子さんが医学部を卒業して医師になると決まったときは「父親から短い刀をもらいました。(中略)“医者として責任をとらなければならないときにこれを使え”と父はいいました」明治以降も岡崎家には武士の家の雰囲気が息づいていました。こうした “侍”としての厳しい心構えがあったのです。“責任は自分でとる”ということを武士は大切にしていましたが、岡崎家もまさにそうでした。岡崎邸は本当に“武家”の屋敷だったのですね。岡崎邸にいちばん多くの人が集まったのはお正月です。岡崎家にお世話になっている人などがたくさん集まって、3が日にはお酒やおせちが振舞われました。中には3日3晩飲み続けた人もいたようで、この時の岡崎家はとても楽しいひとときでした。
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明治以降の岡崎邸はどのような歴史をみていきましょう。 藩の財政を立て直した5代目・平内可之、政治家として活躍した7代目・平内可観と、鳥取の重要な人物の住んだ岡崎邸でしたが、7代目・平内可観が亡くなった8年後、大正14年(1925年)に屋敷は他人の手にわたることになりました。経済的にきびしくなったのがその原因でした。その後、岡崎邸は何人かの人の手に渡っていきます、その間に道場、茶室、蔵、長屋門などは取り壊されていきました。岡崎邸に住んだ人として有名なのが中田正子さんでした。中田さんは日本で最初の女性弁護士で昭和25年(1950年)から平成14年(2002年)までの52年間という長い間、この建物で暮らし弁護士として活動しました。この土地を大変愛された人でした。今は中田さんの長女・澄江さんが暮らしていますが、まもなくここを出られる予定があるそうです。
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まさに岡崎邸は途絶えようとしていました。 しかし、ここ近年鳥取の人々が中心となって、鳥取の歴史遺産や文化を見直そうという活動が起こってきました。その中でこの岡崎邸を保存しようという運動がはじまり、建物を専門の人が調査することになりました。調査の結果、岡崎邸は非常に貴重な歴史のある建物であることが分かりました。例えば建物は当時の武家屋敷と比べ美しく丁寧な仕上げとなっていました。また柱は杉を使っていますが、その太さは5寸2分(約16cm)と当時の武家屋敷の4寸(約12cm)を上回り、また壁にも良質な土が使われています。中でも関係者や専門家を驚かせたのは「外観と内装の差」でした。岡崎邸は外から見ると武家屋敷ですが、その内装は数奇屋風の造りがされていました。数奇屋風とは茶室風のことで、武家屋敷にこうした趣味的なものが入っていることは非常に珍しいといわれています。武家屋敷というと、きっちりした厳格な建物だと思いがちですが、“粋”な心の入った、センスある建物だったのですね。またこの岡崎邸には「殿様からいただいた材で建てた家」という言い伝えがありましたが、畳を上げたときに「天保六年」という、岡崎邸が建築されたと思われる年号が書かれた、こたつのふたが3箇所で見つかりました。
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さて、岡崎邸に関する歴史や人々を見てきましたが、そこでひとつ気付いたことはありませんか? それは歴史のある建物にはその地域の出来事と非常に大きな関係があるということです。鳥取という歴史ある建物には鳥取という歴史の物語があるように思います。はじめに言ったように、お城や城下町は明治に入ると取り壊されてしまいました。歴史的なものは一度なくなると、その復興にはたくさんのお金と時間がかかります。そしてなによりそのマチや場所の個性も失われてしまいます |