天保6127日付け 「御目付日記」に基づく旧岡崎邸の改変過程の推測

逐一読むと次のようになる。

「御目付日記」(県博物館蔵)

天保6127日の条

一、            左之面々左之御断書差出し、御家老共江申達

夫々及返答

別帳二記之

一 岡崎平内拝領屋敷本宅取崩、右跡江梁間

弐間桁行七間、東西江壱間通り宛之下付、東側江

出間半横七間、西側江出弐間横七間、南側江

出壱間横六間半、北側江出間半横六間半之

庇付惣土台居、屋根取葺ニ本宅建申度

御断書差出、昨廿六日町御目付見分相済及

返答

 

やや読み下すと、次のようになるものと思われる。

 

「お目付日記」(県博物館蔵)

天保6年(1835127日の条

 

1.      左の方々左のお断り書きを提出し、ご家老の皆様にお伝えした。

各家老は次のように返答

1.      岡崎平内の拝領屋敷の本宅を取り壊し、右の跡に梁間2間*桁行7間、東西に通りに向けて1間の下屋、東側に軒の出1間半*横7間、西側に軒の出2間*横7間、南側に軒の出1間*横6間半、北側に軒の出1間半*横6間半の庇付の土間、屋根板葺き石押えに本宅を建てたい旨、お断り書きを提出。昨26日、町目付の検分が済み、返答。


即ち、このいわば建築着工確認申請内容は、旧岡崎邸の現状と極めて良く符合するので、今日の旧岡崎邸の建築許可願いであったものと判断される。

これによれば、それまで住んでいた拝領屋敷を取り壊して新築することを願い出たものであることが判る。

この申請を出す頃の彼の禄高は300石であったが、銃を40挺預かる藩の勝手方助役で、泰姫様の引越しご用掛かりであった。かなり多くの使用人がいたことになる。

この申請で許されたのは、現岡崎邸の表側(東側)の2間×7間=14坪と言いながら東西に1間づつ下を付け、合計4間×7間=28坪を母屋とし、屋根の出を、裏側(西側)に2間、東側に0.5間、南側に1間、北側に0.5間出したものと言うので、合計6.5間×8.5間=55.25坪の大きな建物を建て、構造は土台構え、屋根は板葺き石押えとしたようである。

前の拝領屋敷がどのようなものであったか判らないが、かなり大きな屋敷の建築許可を得ている。

彼はこの後天保8年には江戸に行って泰姫様の屋敷の普請担当となるので、彼自身の住宅の工事は遅くも天保7年には片付けてしまう必要があった。

主人室のコタツの蓋に天保6年と記されているので、天保6年に竣工したものと考えられる。

これらからやや解釈が難しかった幾つかの問題が解明されるに至り、旧岡崎邸が、天保61月の着工で、年内に竣工したらしいことが判明した。

泰姫は将軍徳川家斉の末娘で、この時僅か10歳足らずと思われるが、当時の鳥取池田藩の藩主、池田斉訓と婚約され、池田藩として江戸の藩邸内に屋敷を整えたようである。この泰姫の家が実際に使われるのは斉訓と婚姻する天保11年(1840)からであろうが、工事は

天保8年から行なっており、天保8年に彼はこの工事の担当主任として江戸に赴いているので、彼は建築技術に通暁する人物としても評価が高かったものと考えられる。

この文書とは別にやはり最近発見された「岡崎平内文書」によれば、天保123月にはこの主屋の南側にある長屋門の増築を願い出ているので、元々の拝領屋敷には長屋門が付いていたとも考えられる。その規模は、2間×9間=18坪であったことも判明しているが、これらが工事期間中の住まいとなったものと考えられる。

 

従来、解釈に困っていた問題は次のように数多いが、南側の1間の出と北側の半間の出が切り取られており、西側に更に半間の出が加えられているが、改変の困難な土台があるし、多くの柱が通し柱となっており、改変が難しいので、一部を除けば現在の建物はほぼ完全に当初からの建設と考えざるを得ない。

 

1)      表と裏の間取りにズレがあること。

表奥座敷の更に奥にある室は、北側の出の部分まで突き出すことで室を構成している。また、この北側の半間の出がなければ表側の構造が閉じない。

2)      小屋の投げ掛け梁が省略されている箇所が2箇所あること。

(ア)  表奥床の間上の小屋梁

(イ)  裏の現在の仮設階段と2階座敷の間の小屋梁

3)      表奥床の間裏居室の敷居・鴨居が3本溝であること。

4)      表奥床の間裏居室の北側壁面線下部に土台がないこと。

5)      2階座敷の造作が新しいこと。

6)      表中座敷床の間の天井が切り下げられた痕跡があること。

7)      裏側室の床下が三和土仕上となっていること。

8)      通常は飾り棚などの置かれる表奥座敷の床脇が襖壁となっていること。

9)      表奥座敷と裏とは襖で仕切られ、表裏の出入りが自由となっている。

10)                 表奥座敷と中座敷の間仕切り壁は、1間の大襖と引き違えの襖の間に撤去可能の柱が入れられているが、これら全てを撤去して16畳の大広間とすることが出来る。

11)                 2階座敷の北側廊下は濡れ縁となっており、雨戸を閉め忘れると下の主人室に雨漏りの危険性がある。

12)                 床板が通常の畳下地とは異なり、表面が磨かれ使いこなされたクリ材となっている。

13)                 表側奥座敷裏の室の入口敷居・鴨居が3本溝となっていることは、表奥座敷の床の間は当初の計画では無かった可能性を示すものと考えられる。しかし、2階への上り口はこの床の間の裏に設けられており、この奥の床の間と同時期かそれより後に造られたものと考えられる上に床奥の隅柱が通し柱となっており、後からの改築は難しい。

 

最大の問題、2階建てであったか否かについては、次のように考えられる。

1階の主人室の造作は大変凝っているが、天井を根太天井としたのは2階を座敷として用いるためと考えられる。多くの柱が通し柱となっており改変が難しいこともあり、1階主人室の整備と2階座敷の整備は同時に行なわれたと考えることが出来る。この際には2階座敷の裏からの出入り口は、1階中座敷の床の間天井もあり、階段開口もあり、かなり使い難いものだった可能性がある。表中座敷の床の間は、建設当初からあったものと考えられるが、2階座敷への裏からの入口を使い易くするために、この天井を切り下げたものと考えられる。

鳥取では洪水が多く、武家住宅を2階建てとしていざと言うときに2階に避難できるように用意することが推奨されていた(五水記による)ので、棟を高くすることに対する抵抗感は少なかったように思える。

 

この建物の改変痕跡の多いのは裏側の下屋部分である。主屋ではないので、構造的なしばりが働かない。江戸期から明治・大正・昭和の戦中・戦後と言った具合に時代と共に様々な使われ方をして来たことを良く示す。これらについてはかつての居住者からのヒアリングから想定した復元図がある。個人の記憶に頼った調査であるから限界があるが、頻繁に改変を受けた建物の改変過程の全てを痕跡調査に求めるよりは間違いが少ない。古材の転用も多く、痕跡調査から全てを明らかにしようとするのは限界がある。

更なる検討は解体修理をする際に部材の番付を確認することなど、抜本的な調査によってのみやや可能であろうが、多くの成果は期待できないし、そのためには新築する費用の数倍の費用を要する。

この建物は、武家屋敷でありながら自由設計であり、その仕様は一方において極めて堅固であるが、他方において数寄屋的なきめの細かさを持つ非常にユニークな建物であり、文化財としても大変価値の高い逸品である。

 

本建物は単なる単一の建造文化財としての意味もさることながら、藩財政立直しに始まり、武道の振興、明治維新期における活躍、維新後の鳥取県再置、鳥取県初の学校制度や医療体制の確立、各種の産業振興などに貢献の多かった5代から7代に至る岡崎平内家が活躍した場としての意義が高い。馬場町のこの場所にいた下級武士だからこそ救えた藩財政という側面もあるが、僅か300石の武家が因州藩の危機を救い、鳥取県の存続を勝ち得たことは特に重要である。

この一家の活躍なしには今日の鳥取県も鳥取市も存在しないので、この一家に対して感謝の気持ちを多くの人々に共有していただくことが、今後の鳥取県・鳥取市にとって重要であるので、市ないし県の史跡として保存する必要があると考えられる。