文化財保護と相対的評価について

 

鳥取市文化財保護審議会は、旧岡崎邸の史跡提案を相対的評価の観点から結論を保留した。

鳥取市には多くの遺跡がある。

 

縄文時代遺跡

桂見遺跡(桂見)、布勢遺跡(布勢)、青島遺跡(高住)、古海遺跡(古海)、栃木山遺跡(浜坂)

弥生時代遺跡

青島遺跡(高住)、身干山遺跡(白兎)、塞ノ谷遺跡(高住)、天神山遺跡(湖山町)、高住銅鐸出土地

(高住)、湖山第2遺跡(湖山町)、大桷遺跡(大桷・島)、岩吉遺跡(南隈)、服部遺跡(服部) 、布勢鶴指奥墳墓群(布勢)、西桂見遺跡(桂見・高住)、富安遺跡(富安町)、久末遺跡(久末)、越路銅鐸出土地(越路)、立川遺跡(立川町)、西大路土居前遺跡(西大路)、門上谷1・2号墓(紙子谷)、秋里遺跡

(秋里)

古墳時代遺跡

桂見古墳群(桂見)、里仁古墳群(里仁)、桷間1号墳(大桷)、 布勢古墳(布勢)、大熊段1号墳

(湖山町)、葦岡長者古墳(吉岡)、円護寺27号墳(円護寺)、山ヶ鼻古墳(古海)、六部山3号墳(久末)、古郡家1号墳(古郡家)、紙子谷1号墳(紙子谷)、開地谷古墳群(浜坂町)、七谷窯跡(越路)、橋本38号墳(橋本)、坊ヶ塚古墳(広岡)、空山装飾古墳群(久末・広岡外)、浜坂横穴墓群(浜坂町)

奈良時代遺跡

岩吉遺跡(岩吉)、菖蒲廃寺(菖蒲)、吉岡大海廃寺(吉岡)、紙子谷窯跡(紙子谷)

 

これらの内、国史跡となったものは、布勢古墳(布勢)のみである。だから江戸時代から明治時代に掛けて活躍した人物の生家を史跡などにすることが出来る筈が無いというのが考えられる説明であろう。

問題は、これら埋蔵遺跡に関して市としての史跡指定を行なっていない点であろう。発掘には経費が掛るので進まないということがあるのであろうが、この辺りに市の文化行政自体に問題がありそうである。

旧岡崎邸・池内邸調査チームが提案しているのは国の史跡ではなく、市ないし県の史跡である。岡崎平内の地方史上の業績が市の史跡に相応しくないという議論があり得るのであろうか?

わが国の地方政治家の生家が史跡となっている事例は、少ないが無い訳ではない。(別稿参照)

 

遺跡などに比して重要か否かを判断して結論を出すというのは、あたかも論理的であるようであるが、寿命の限られた建築物に対する指定は保存という観点から重要な意味を有するのに対して、遺跡調査は、それに時間が掛るといっても、その埋もれていた期間に比して短いのが通例であろう。遺跡は発掘によって急速に劣化が進む危険があるが、建築物は保存しないと壊され、二度と見ることが出来なくなる。本質的に異なるカテゴリーのものと比較しようとしている無理を感じる。

旧岡崎邸は、中田正子さんという弁護士が身を賭して護ってきたが故に今日尚存在するもので、その人の亡くなった今、何時壊されても不思議でない状況にある。

旧岡崎邸は、建築的に見ても文化的な意味を豊富に有することは提案書の示す通りである。従って、将来的には市の文化財として指定することも、更には国の重要文化財とすることも検討するに値するが、何分にも建設以来の改変が多く、改変過程の全てを明らかにするには解体修理などの徹底した調査を待たねばならない。そのためには先ず保存することが重要であり、取り敢えず市の史跡として指定し、保存の網を掛けることを提案したものである。

 

悉皆調査

悉皆調査なしには文化財の指定が出来ないという。このことは、従来行なってきた文化財審議を全面否定することになり得ないであろうか。よしんば、過去の審議は別で今後の審議のみが対象としても、悉皆調査が完了する3年後までは市の文化財審議は出来ないことになるが、果たしてそれが許されようか?

ところで、今回の悉皆調査なるものは近代和風建築総合調査であるという。これは市ではなく、県が文化庁の補助を得て行なう事業である。市が行なう事業でもないものを頼りに結論を出すということは、市が県の事業に対して何等かの注文を付け得る立場にあるということであろうか?

これは総合調査であるが、悉皆調査とは謳っていない。近代和風なる定義が明確であるとしても、それは全ての建築物を調査するものではあり得ず、一定の基準に従って選択されたものを調査するに過ぎないので、結局最初の拾い出しからはみ出たものは調査されないことになる。旧岡崎邸も池内邸もこのような調査の網から零れ落ちていた建造物であることを忘れてはならない。

史跡についての判断を出すのに近代和風建築の悉皆調査がどう関係するのであろうか。岡崎平内の業績が市の歴史にとって重要な意味を有するか否かが判断可能であり、調査書の記述に間違いが無ければ、史跡として指定して何等不都合がないものとは考えられないであろうか。